[転載]グーグルと中国のケンカの狭間で

作者:小田嶋 隆 出所:日経BPオンラインhttp://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100325/213627/

 グーグルが中国本土での検索事業から撤退する旨を表明した。

 びっくりだ。
 なにしろ、相手は世界一のインターネットユーザーを抱える世界最大の市場だ。

 というよりも、ちょっと先の未来を考えれば、中国市場は、世界最大どころか、世界の半分かもしれない。こういう国を敵にまわして、グーグルは、この先、どうやって商売をするつもりでいるのだろう。

 昨年末以来、中国政府とグーグルが色々とやり合っていることは知っていた。
 やれ中国からのサイバーアタックがあったとか、いいがかりだとか、人権活動家のGメールへの組織的なハッキングがどうしたとか、被害者はむしろ中国政府だとか、お互いに非難を繰り返しては対立を深めていた。

 そんな中、グーグルは、
「中国における攻撃と検閲の状況が変わらなければ、中国でのサービス提供を断念する可能性がある」
 と、昨年の12月の段階で、既に、撤退を示唆している。

 そう。これは、藪から棒に起きた出来事ではない。表だって事件化してから数えても四カ月、発端に遡ればもう何年も前からくすぶっていた火種だ。

 が、グーグルの撤退については、私は、どうせハッタリだと思っていた。
 だって、撤退はいかにも無理筋だったからだ。だから私は
「中国相手にブラフをカマすとはいい度胸だ」
 ぐらいな気分で、なまあたたかく事態を見守っていた。

 実際、グーグルのような規模の企業が示唆する「撤退」の二文字は、これは、かなり熾烈な脅迫になる。
 普通の国はひとたまりもない。
 たとえば、うちの国だったら、官民挙げての大騒動になる。
 「グーグルが去ることは国際社会からのダメ出しに等しく、世界から取り残されて云々」
 と、目の据わったキャスターがカメラ目線でかきくどくと思う。目に浮かぶようだ。

 一方、中国市場からオミットされるという事態は、世界中のほとんどすべての企業にとって、悪夢以外のナニモノでもない。国際展開を考えている情報企業であるのならなおのことだ。中国は、世界の中心ではないかもしれないが、たとえ周縁だとしても、中心よりもはるかにデカい。無視できるはずがない。

 ともあれ、この両者の争いは、決して別れられない腐れ縁の夫婦の口げんかと同じことで、どうせ本気ではないのだ、と、私はそのように見なしていた。キツいことを言い合っているようでも、本当は条件闘争をしているだけで、決裂が不可能であることは、お互いに了解しているはずなのだ、というふうに。

 メディアも、この件については、「一歩引いた報道」に終始していたといって良い。
 新聞もテレビも、どちらに付くことも無く、いずれを非難することもせず、ただ最小限の事実関係のみを伝えて、うすら寒そうに事態を傍観していた。省力報道、あるいは、減力放送。彼らの注目は、もっぱら、やんごとなきあたりの小学二年生の5日ばかりの不登校に注がれていた。ま、平和だということなのかもしれないが。

 報道各社の人々もまた、私と同じように、グーグルと中国の間のやりとりを、誇張された痴話げんかぐらいに見なしていたのだろうか。あるいは、記者諸君は、中国の機嫌を損ねることを恐れて、見て見ぬふりをしていたのかもしれない。おなじみの安全策。木彫りの猿の人形みたいに、目の上に両手を添えて見ないふりをする、あの処世だ。

 真実は、視界を塞ぐ指の隙間から、ほんのちべっとだけ盗み見るのみ。
 見て、でも、何も言わない。何が見えていようとも。今度は口に手を当てる。誰かに何か言われたら、その手を耳に持っていく。万全のカテナチオ戦術。世界の屋根裏のことなんか知らない。見たことも聞いたこともない。だから何も言わない。

 もしくは、メディアの人々は、むしろ、グーグルとコトを構えることに対して慎重になっていたのかもしれない。

 たしかに、グーグルみたいな企業の反対側に立つことは、たいへんに薄気味の悪いことだ。
 というのも、メディア企業は、この先、どこであれ、大きな意味では、グーグルの代理店みたいなものに変貌せざるを得ないのかもしれないからだ。

 さてしかし、わたくしども臆病な傍観者の願望的予測を裏切って、グーグルは、本当に撤退する決断を下した。
 驚くべき判断だ。
 大丈夫なのだろうか。

 いや、私はグーグルの将来を心配しているのではない。
 中国の先行きを懸念しているのでもない。

 中国であれグーグルであれ、そういう巨大な存在が傷を負うことになれば、われわれとて無事では済まないぞ、と、そこのところを私は憂慮している。さよう。われわれは、アメリカがくしゃみをすると、律儀に風邪をひく国の国民として、長らく国際社会の揶揄の対象になってきた。が、もはや、震源アメリカ一国ではない。病態は万国に満ちている。中国が風邪をひけば、トヨタが肺炎になるかもしれないし、グーグルが風邪をひけば電通脳挫傷で倒れるかもしれない。それほど世界は狭くなっている。

 中国にとって、グーグルはある意味、黒船に近い存在だ。
 彼の国の情報鎖国を脅かす外敵でもあれば、世界市場への本格参入を促す招待者でもある。

 とはいえ、この先、長い目で見て、中国が自由化への道を歩むことになるのだとしても、その道筋はおそらく、一本道ではない。曲がりくねった、複雑な過程になるはずだ。少なくとも、自由化の前に、まず、踏んでおくべき順序として、中華バブルの崩壊が到来せねばならない。でないと、基礎工事ができない。しかも、泡盛転覆の折りに生起するであろう経済的な混乱は、処理を誤れば、内乱ないしは政治動乱を引き起こす。と、自由化は、結局、かつて多くの場所でそうであったように、何かが倒れた後にやってくるものであるのかもしれない。

 そう思って見れば、この度のグーグルの撤退も、単に「現時点での政権との決別」を意味する、小波乱に過ぎない。

 あるいは、とてつもない量の情報を日々刻々精査している検索ロボットは、最終的に、その飼い主に向けて、中国の現体制が沈み行く船である旨のレポートをタイプアウトしているのかもしれない。とすれば、ここは一旦カジノから退出するのが得策。航海は続く。定置網を上げるのは、もっとデカい獲物がかかってからでも良い。

 中国の側からは、別の景色が見える。
 沖合に黒船が停泊している時、陸の上の人々は、夜も眠れない。彼らの間には、動揺の波が広がる。その波は、やがて、開国派と攘夷派というふたつの対立する流れとなって、国論を二分する。あんまりに簡単な要約に聞こえるかもしれないが、でも、デカい国でも、小さい国でも、規模こそ違え、起こることにたいした差はないはずだ。
 開国と攘夷。異文化が衝突する場所では、どこでも同じことが起こる。きっとそうだ。

 中国政府は強気の姿勢を貫いている。
新華社通信は中国政府当局者の発言として、『Googleが中国語版検索サービスの検閲を廃止したのは、書面での約束に違反する行為であり、完全に間違っている』との見解を報じている」(3月23日ロイター)

 彼らの強い態度の背景には、おそらく、世論を味方につけているという彼らなりの自信があずかっている。
 産経新聞の北京支局員は、このように伝えている。
「米インターネット検索大手グーグルが中国本土での検索サービスから撤退を発表したことについて、中国のネット利用者の多くはグーグルを非難する書き込みをポータルサイト掲示板などに寄せている。撤退を歓迎する声と惜しむ声との比率は約9対1。一貫して「法律」を盾に対応してきた中国政府の“作戦勝ち”ともいえる。
 グーグルと提携している中国の人気ポータルサイト、新浪ネットには24日までに、『外国人と外国企業は中国の法律を順守しなければならないことを理解すべきだ』といった意見が多数寄せられた。他のポータルサイトを含め、『グーグル出ていけ』『ずっとグーグルは使っていない。死んでくれてよかった。何の影響があるというのか』などと、感情的な意見も後を絶たない。――後略――」(産経新聞3月24日、原文はこちら)

 一人の日本人として、両者の対立を見ていると、一抹の淋しさを禁じ得ない。
 というのも、われわれは、モロに蚊帳の外だからだ。
 世界の大国と世界の大企業の横綱相撲を、はらはらしながら見上げている桟敷席の年寄り――われわれは、いつしか、舞台の中央から外れて、エキストラの地位に甘んじるようになった。

 ほかのところでも一度書いたのだが、印象深い話なのでもう一度書く。
 昨年の年末、ちょうどグーグルが中国とモメ始めた頃、使っているパソコンに問題が発生して、私は、メーカーのサポートセンターに電話をした。

 われわれは、日々、多様な中国に直面している。
 好むと好まざるとにかかわらず、直面せざるを得ない。

 中国発の優秀な留学生や、物騒な犯罪者や、粗悪な食品や安価な衣料品や、べらぼうなマナーや巨大な市場に。なにしろ、相手は、世界最大の人口をかかえる世界最大の国で、しかも、隣国だ。付き合わないわけにはいかない。

 コールセンターの電話口には、一声聞いて中国人と分かるしゃべり方の女性が出てきた。
「リンと申しマス」
 私は、ちょっと落胆した。なるほど、メーカーのサポート拠点が人件費の安い中国にアウトソーシングされているという噂は、あれは本当だったのか。

 が、しばらくすると、私の懸念は晴れた。
 そのカタコトのリンさんが、思いのほか迅速に、こちらの状況を把握し、適確なアドバイスをしてくれたからだ。

 こういうことは滅多にない。
 っていうか、はじめてだ。

 サポセンの電話担当というのは、質問攻めにしてくるばかりで、結局モノの役に立たないのがデフォルトで、
「最初に確認いたしますが、電源ケーブルは接続されているでしょうか」
 と、いきなりケンカを売ってくるかと思えば
「少々お待ちください」
 と言ったきり数分間にわたって待機メロディーを聞かせたりする、そういう仕様の人々だからだ。

 リンさんは違った。素早く相手が陥っているトラブルを認識し、どの程度のパソコンスキルの持ち主かを見抜き、順序立ててひとつずつ解決策を示し、見事に問題を解決してくれた。天晴れ。

 つまりこういうことだ。メーカーのサポートセンターに派遣されている日本人に比べて、中国人の電話サポート要員は、優秀である確率が高いのだ。言葉のハンデを乗り越えて採用されている分だけでも優秀なところへ持ってきて、彼らは、なんというのか、必死だ。有能かつ必死。とすれば、オペレーターとしてどちらが優秀であるのかは、自明ではないか。

 「必死だな(笑)」と、2ちゃんねるの連中がなにかにつけて繰り出してくるこの嘲弄の決まり文句は、実は、私にとって、心当たりのない言葉ではない。というのも、たぶん、人が必死に頑張ることを嘲笑したのは、私たちの世代が最初だったはずだからだ。そう。われわれは、ムキになって何かに取り組んでいる人間を笑った。
「ごくろうなことだね」
 とか言って。

 われわれ昭和30年代生まれ以前の、貧しかった時代の日本人は、笑うよりもなによりも、ムキになって頑張らないと生き残れない人たちだった。だから、必死な人間を笑う風習は彼らにはなかったはずだ。

 それが、現在では、必死であることは、もしかしたら人間の態度のうちで、一番みっともない仕草に分類されていたりする。

 勝負は明らかだ。

 必死であることがまだ美しさを失っていない国からやってくる、必死で頑強で堅忍不抜な人々に、われわれの国の人間が勝てる見込みは、とても少ない。残念なことだが。

 無論、グーグルにも勝てない。
 資本とコネクションと情報と軍隊を持っている国が強引に展開するビジネスの論理には、誰も太刀打ちなんかできない。

 必死な中国人と、強引な情報資本が対立するのは、これは、避けがたい宿命だ。
 そして、彼らの全面対立は、もしかするとこの世紀の世界に非常に厄介なトラブルをもたらすことになる。
 考えるだにおそろしい。

 いずれにしても、巨人同士の争いは、簡単には収束しない。双方ともが、巨大なプライドをかかえているからだ。メンツの上からも、簡単に引き下がるわけにはいかない。対決モードに入ると、大国の人間は、損得を度外視してでも意地を貫こうとする。損を引き受けるだけの余力があるからでもあるが、まあ、思い上がっているからね。デカい人たちは。

 と、こんな時こそ、小国の出番だ。小柄な調停者。あたしゃ音楽家森の小リス。そういうキュートな存在が緊張を緩和する。

「グーグルを追い出したっていうのは本当かな?」
「誰だ、お前は?」

「隣人だよ」
「何の用だ? 何を売りに来た?」
「カネで買えないものだよ」
「ケンカなら買うぞ。倍返しで。おぼえておけ。われわれはもはや眠れる獅子ではない」
「いや。私は恩を売りに来た。それもタダで、だ。受け取ってくれ。国際社会は貴国の検閲と人権侵害を憂慮している。そのことを伝えに来た」
「わが国に問題が無いとは言わない。が、われわれは小異を問わない。常に大同につく。すべての異分子を一枚の体制で包み込む。わかるか? 餃子の心だ」
「包んで隠せば毒が消えるというものではないぞ」
「大丈夫。火を通せばあらゆるものは食品になる。これぞ、炒(チャオ)の原理にして加熱殺菌の秘法」
「友よ。政治は料理ではない。それ以上に人民は餃子の具ではない」
「お説教か?」
「まあ、食え。マグロだ。生にして美味。火力無用。海洋の奇跡だ」
「うむ。旨い。ところで、オレは何と闘っていたんだ?」
「さすが大人(たいじん)。食え。寿司だ」

 たとえば、鳩山さんが、「友愛」と書いた色紙を二枚携えて調停に乗り出したら、案外、話は落ち着くところに落ち着く気もする。友愛は、たしかに間抜けな所信だが、意地を張っている人間にはちょうど良い清涼剤になるはずだ。

 調停者は、大真面目な顔で間抜けな正論を言える人間でないとつとまらない。
 能力と、必死さがあるともっといいのだが。